近年、大学などの教育施設に「ラーニング・コモンズ」と呼ばれる場所があることをご存知ですか。従来は図書館などで機能していた学習支援を図った空間が、様々な業種に応用される際に用いられる言葉です。また、「共有空間」を表すコモンズ(Commons)では、コミュニティの構成やコミュニケーションの活性化も大事なポイントと捉えられています。
そんな共有空間の概念を医療に取り入れているのが、徳島県の精神科病院「むつみホスピタル」です。
「医療の現場にはセクショナリズムが存在する」と語るのは同病院の井上理事長。医局や薬局など、職種ごとに部屋が異なる環境では、互いに何をしているのか分からないことがあるそう。どのようにして、接点の生まない環境を打破し、コミュニケーションが生まれる空間や仕掛けを創ってきたのでしょうか。
ハード面の取り組み「コモンズ」とソフト面のアプローチ「パーソナルサクセス室」の両輪を生んだ経緯に触れながら、チームの在り方ついて、井上理事長、パーソナルサクセス室室長の桑原さんにお話を伺いました。
井上 秀之(いのうえ ひでゆき)
むつみホスピタル 理事長
1978年徳島県生まれ、精神科専門医。東大院・医・脳神経医学専攻修了後、東京大学医学部非常勤講師などを経て2017年より現職。地域にある精神科病院、精神科医だからこそできる組織変革を模索。趣味はランニングとサッカー観戦、旅行。吉野川に新しくかかろうとしている橋を眺めて走るコースが最近のお気に入り。
桑原 美由紀(くわはら みゆき)
むつみホスピタル Personal Success室 室長
1977年徳島県生まれ、診療情報管理士。徳島文理大学短期大学部卒業後、むつみホスピタルに就職して勤務歴22年。2020年より現職。誰よりも地元愛、病院愛が強く、法人にかかわる全ての人の応援団長を勝手に自負。 最近、娘と韓流アイドルにはまっています。ライブに行くと、ついついグッズを大量買いしてしまいます。娘と一緒にいろんな国を旅してます。
パーソナルサクセス室の存在意義
桑原さんが室長を務める『パーソナルサクセス室』は、今年の4月に創設したばかり。従業員だけではなく、患者さんのエンゲージメントやサクセス(成功)、リカバリー(回復)を一括して、第三者的な立場で同じ視点で関わることを目的としています。
井上理事長
“精神医学や心理学、精神看護学やリハビリテーション学など、対人支援学を上手く活用することで、患者さんを回復に導くだけではなく、従業員のエンゲージメントにも大きく寄与できると考えています。実際、近年IT業界などの先進的な企業で語られているカスタマーサクセス、エンプロイーサクセスなどの考えは、元々は心理学的な側面があります。本来であれば僕ら精神科医療従事者がもっと知るべきですが、それを上手く組織に活用できている精神科の病院や医療関係の機関は多くありません。”
従業員のエンゲージメントを高めるために、「サクセスマップ」と呼ばれるシートにプライベートと仕事のゴールとプロセスを記入し、上長との面談では双方から成功することを考えられるようにしているそうです。
その週に誕生日があるスタッフのサクセスマップはコモンズに掲示するとのこと。ちょっとしたプレゼントがもらえたり、サクセスマップの内容を紹介されたりして、従業員みんなでお祝いもしているそうです!
また、患者さんにもサクセスマップを書いてもらうのですが、必ずしもゴールを達成することだけを目的にはしていないそうです。
井上理事長
“例えば妄想の活発な方が「アメリカの大統領になりたい」と言うわけです。しかし、おおよそ実現不可能だとしてもそれを否定する必要はありません。基本的に犯罪でない限りは積極的に僕らも患者さんのゴールを応援します。
本当にその人が「こうなりたい」と思うことはやはり特別であり、そこから逆算していけば、なかなかできない日々の課題も頑張れます。
リカバリーを支援する仕組みが、ここ5、10年ほどで日本でもしっかりと注目されるようになってきました。この仕組みづくりは、組織の運用にも生かしていけるようにパーソナルサクセス室でも実践したいです。”
本質的な組織作りは「家族」より「チーム」の意識で
パーソナルサクセス室では、有名なパン屋を呼んでデリを開いたり、マリオカートや映画鑑賞、パブリック・ビューイングなど、これまでスタッフのニーズを汲み上げながらイベントの企画を行ってきました。
むつみホスピタルには現在200名以上のスタッフが在籍しています。企画を考えたり声掛けをするには人望がなければ務まらないもの。
桑原さんが井上理事長からパーソナルサクセス室の担当に抜擢された理由は、「自分で考えられる」ことにポイントがありました。
井上理事長
“桑原さんは人と関わることがやはり大好きなため、今の役職は本当に適任です。医療職だと特に少ないのですが、新しい部署で自分で何かを作っていかなければならない時に最も重要なのは、やはり自分の頭で考えられることです。その意味からも、彼女にピッタリの役職だと思いました。”
理事長やスタッフから厚い信頼を寄せられる桑原さんですが、スタッフと接する時に意識することがあります。
桑原さん
“意識しているのは、いつも同じテンションでいることです。表情や話し方など、スタッフにも患者さんにも「いつもあの人はちゃんとやってくれる」「いつもあの人はすぐに対応してくれる」と感じてもらいたい。
患者さんからもスタッフからも最近の悩みから些細な出来事までたくさんの情報がパーソナルサクセス室にとっては大切になってきますが、私が怒っていたり機嫌が悪かったりすると聞き逃してしまいます。直接的なコミュニケーションで得られる情報がほとんどですので、私の場合は対話していくことを意識するようにしています。”
また、井上理事長はパーソナルサクセス室の在り方について、専門家としての意見はしっかり伝えているのだそうです。
井上理事長
“精神科の場合、基本的に慢性の疾患とどう付き合っていくのか、長い人生の課題になります。そんな中、医療者としてどういう役割が果たせるのかを意識しています。その場の仲の良さだとか患者さんの希望を叶えることが彼らのリカバリーやサクセスに結びつかないこともあります。
嫌われることや衝突することがあってもいいと思っています。もちろん、なるべく衝突のないようするべきですが、立場や意見の違いによる緊張を前向きな力に変えられるかどうかが重要です。そのためには、臨床においては患者さんの価値、組織においては、進むべき方向性や理念が、定まっていて共有されていることが必要です。それらのために仲良くするわけで、仲良くすることが目的ではありません。
家族的な経営というのもいいと思いますが、僕は組織は家族ではなく、同じ目標でやっていくチームだと思っていますので、同じ方向を向いてやれるときは一緒にやっていけばよいし、逆に少し方向が違ってくれば快く送り出すという姿勢です。やはりチームだからこそ他に移籍しても応援できる、そんな関係でありたいと思っています。”
ここまではパーソナルサクセス室についてお話をお聞きしました。 後半では、コモンズのデザインプロセスと未来の展望について伺います。