医療が活躍するシーンは、病気やケガを治療するときだけなのでしょうか?
人は病気にならないため、病気を治すためだけに生きているわけではありません。健康を「社会的、身体的、感情的な問題に直面したときに適応し、本人主導で管理すること」と捉える概念「ポジティヴヘルス」を大切に、医師の紅谷浩之さんは、生活と結びついた新たな医療のかたちを探求しています。
在宅医療を専門に行う「オレンジホームケアクリニック」や地域の幼小中一貫校との連携による病児保育を中心とした在宅医療拠点「ほっちのロッヂ」など、さまざまなプロジェクトに取り組む紅谷さんへのインタビュー企画。前編記事では、人の持つ「エネルギー」を表すポジティヴヘルスの概念の真意に接近しながら、紅谷さんの実践の軌跡を綴りました。
後編記事では、「治療」だけにとどまらないポジティヴヘルスの可能性、そして紅谷さんが考える「脱・医療」としての医療の未来に迫っていきます。
ポジティヴヘルスは、病気やケガがない人にも役立つ
ポジティヴヘルスの概念を大切にすることは、医療者の役割を広げることにもつながるといいます。
「病気になった、辛い、痛い、苦しい……一般的に僕ら医療者が登場するのは、こうしたネガティブな感情が湧いたときですよね。でも、『今は調子が良いから、もっと上向かせていきたい』『漠然とした不安がある』といったもっと手前の段階から、医療者が関わっていくべきだと思うんです。その際に、ポジティヴヘルスの概念が役立つと考えています」
既に、小学生の検診やプロスポーツ選手の健康診断への活用を始めているといいます。あるスポーツ選手が、試合はうまくいっていないし、今後の選手としての目標は見えなくなっているしと、とても苦しんでいたそう。
そこで、前編記事で詳しく紹介した、ポジティヴヘルスを構成する6つの指標を測るレーダーチャート「クモの巣」を書いてもらいました。すると、自分のことを自分で決めるのが苦手であることが原因で、自己肯定感が下がっていると、課題が明確になりました。それがきっかけで考え方が変わり、日々の生活や活動の中に解決のためのアクションを少しずつ取り込むことで、3ヶ月後に再びクモの巣を書いてもらったときには劇的に数値が改善していたといいます。
「プロスポーツ選手って、身体は当然ながらメンタル面もすごくタフで、強い人が多いイメージがありますよね。でも、どれだけ身体が頑丈でも、精神面や生きがい、今後生きていく上での軸などには迷います。『試合に勝てばいい』『チャンピオンになればいい』といった点だけをゴールにすると見えなくなるので、そこにスポットライトを当て直すためには、ポジティヴヘルスが重要だと思っています。もちろん、その上で私たちができる医療的ケアがあればお助けすることもありますが、基本的に決めるのは本人です。私たちはご自身の現状を6つの指標に分解し、言語化するお手伝いをしているだけなんです」
医療と生活を結び直すために
「生活」の場で医療を実践したい──紅谷さんが、ポジティヴヘルスの可能性を従来の医療の枠組みを超えて模索している背景には、こうした問題意識があります。
「人は病気のために生きているわけではありません。病気がその人の人生や生活を邪魔していることは事実ですが、病気を治すことだけが目標であり、病気さえ駆逐すればその人の生活は全てハッピーになるのだという考えは、おかしいのではないでしょうか」
在宅医療という生活の場面に入り込む営みの中で、病気が治らなくてもとても元気になる人、病気が治ったのに鬱々としていて回復できない人を見ていると、病気だけを扱う医療で本当にいいのかと考えさせられるといいます。
例えば、一生治らない半身麻痺があって病気の治療としてはお手上げだったとしても、ベッドの高さや向きを変えたり、廊下に手すりをつけたりすることで、できることの幅が広がり、生活の質を向上させることはできる。「病気は良くなっていないけれど生活は良くなるということは、可能なわけです。その視点が、病院の医療には大幅に欠如していると思いますね」。
生活の中の不便さのケア、地域の中でのつながりの再構築……病気の治療・コントロールにとどまらない、より良い生活のためのエンパワーメントこそが、紅谷さんの問題意識の根幹です。例えば、医療的ケア児のための保育園・学童「オレンジキッズケアラボ」では、一般には病院か自宅しか居場所がないことが多いという人工呼吸器をつけた子供たちが、驚くべきことに、福井県から軽井沢まで自分で移動するといいます。
「病気の人は病院にいればいい、肺の病気だから呼吸器科にいた方がいい……専門職側の物差しで分けられて、つながりを奪われていた人たちの、つながりを回復させていくことがとても大事だと思っています。寝たきりの子であっても、人工呼吸器の子であっても、子供たちがつながろうとするエネルギーはとても強力。そして大人や地域も巻き込まれて、軽井沢の街の人が人工呼吸器の子供が歩いているのを当たり前に受け入れ、JRの人が当たり前のようにサポートしてくれるようになる。子供たちのエネルギーが伝わっていくことで、地域社会が変わるんです」
今、必要な“脱・医療”
そうして生活と結び直されていった先に、紅谷さんは医療の役割そのものが変わっていくと考えています。
「今の医療制度は、戦後になってつくられたものです。人口がひたすら増え、経済発展を続けていく中で、現役世代がケガや病気になったらとにかく早く治し、経済成長を担う要員として復帰してもらう。それが医療の果たすべき役割でした。しかし、今は限界が来ているのだと思うんです。少子高齢化社会となり、誰もが病気や障害と付き合っている時代のニーズには、病院で白衣を着て腕組みして待っているだけでは応えられません。がんになったら病院に行き、治して帰ってくれば良いという話ではなく、がんを抱えながらも人生を充実させることを支える時代になっているのです」
今から100年か200年が経った後、ヒポクラテスの時代より二千年以上続く医学の歴史を振り返ると、20世紀後半の日本はとても特殊な時代だったと捉えられるはずだ、と紅谷さん。その人がその人らしく元気に人生を送れるように回復する手助けをするのが、医療の役割。それにもかかわらず、白い建物の中に病人を集め、“患者”というレッテルを貼り、工場のベルトコンベヤーのように同じ治療をしていて、何とも不思議で不可解な時代があったのだと。
そうした「不可解な時代」を脱していくため、今必要なのは“脱・医療”だと、紅谷さんは提案します。
「もちろん医療者にしかできない専門的な領域はなくなりません。しかし、今の『医療』という言葉に込められている固定観念を捨てていくべきだと思うんです。白衣を着ていること、白い建物であること、痛みや辛さをきっかけに出会うこと、ケアが医師から患者への一方通行でなされること……こうした考えを脱していかなければならないという意味で、“脱・医療”が必要だと思っています」
「健康」は他人から与えられるものではない
“脱・医療”の先の世界では、医療の役割が「その人らしく人生を送れるようにするための手助け」へと広がっていきますが、そこでは病院はむしろ「治療」により一層専念すべきだと紅谷さんは言います。
「ケアする/されるの関係性をしっかり分断してでも、生活軸と時間軸を奪ってでも、病気やケガを直さなければいけないタイミングはあります。もともと病院は、そうしたときに病気をしっかり治して帰す役割に徹していたはず。しかし、高齢化が進展し、『老い』や『死』がどんどんポピュラーになるにつれ、過剰にカバー範囲が広がりすぎてしまったのだと思います」
いわゆる生老病死の「病」だけを司っているはずが、病の原因である「老」や、病の結果としての「死」にまで幅を広げ、老人ホームや延命治療のような役割も担うようになったのだと紅谷さんは見ています。
「でも改めて考えると、老いることも死ぬことも避けられないので、病院という場所は『病』にもう一度専念すべきだと思います。『老』や『死』は地域に返していきながら、病院が担うべき役割をもう一度整理していくことが大事であるはずです」
医療、そしてその中での病院の役割を再編していくにあたって、最も重視すべきは、制度の改変だといいます。紅谷さんは地域医療や在宅医療に携わる中で、制度に医療が縛られているがゆえに、ニーズを切り捨てなければならないケースに直面することも多いそう。例えば、訪問看護のスタッフが「人生で最後にもう一度温泉に行きたい。手伝ってもらえますか?」と言われても、「訪問看護の制度上、旅行に連れて行くのは無理です」と断念してしまうケースがあります。
しかし、生活や人生に入り込んで医療を行っている紅谷さんたちだからこそ気付けるニーズを、未来の制度に乗っていくべきはずのニーズを見放してしまったら、医療は変わりません。だからこそ、医療にとどまらず行政など地域のさまざまな人たちの力を借りながら、ニーズ側に寄り添った、新しい制度をつくり出していくことがとても重要なのです。
そうして制度にまでアプローチした先に紅谷さんが見据えているのは、自分自身の手によってつくり出していく、新しい「健康」のかたちです。
「専門職の物差しで健康を測っている今は、健康は他人からもらうものだと思われていますよね。不安になりながらお医者さんに会って、『あなたは健康でした』と言われて安堵する、というように。でも、ポジティヴヘルスの考え方に則ると、お医者さんが評価してくれる健康は、6つの指標のうちの1つでしかない。健康というものは本来、自分のものであるはずです。他人の評価はそれとして聞いてもいいですが、それはごく一部。あなたが今元気か、楽しいか、ハッピーか、生きがいを持って過ごしているか。本当はそれこそが、健康の大事なポイントなんですよ」
Text by Masaki Koike, Edit by Kotaro Okada