今や65才以上の割合が全人口の21%以上を占める「超高齢社会」となった現代、病院の役割は大きく変わりつつあります。これまでは主に病気の診断や治療に重点が置かれていましたが、これからは予防や回復の支援にも力を入れる必要があると考えられています。そこで近年、「Effective Medical Creation(以下EMCという)」というアプローチが注目されてきました。今回は、HCD-HUB研究生でもあり奈良県立医科大学の医学部生でもある河本由希さんが、EMCメソッドを確立し、普及に尽力している総合デザイナー協会の武澤恵理子先生と、医療現場でEMCを実践している奈良県立医科大学附属病院麻酔科の川口昌彦先生のお二人に、詳しいお話を伺いました。
医療の安全性と成果の向上を目指す Effective Medical Creation
河本 はじめに、そもそもEMCとはどういった考え方かを教えてください。
武澤 わかりやすく言いますと、病院内でのチーム医療を最大限に効率よく効果的にマネジメントするために、患者さんとその家族、そして看護師さんやお医者さんの誰もが心地よい快適空間を【五感】と【知恵・思いやり】そして【色彩学】を駆使して創りましょうという考え方です。この考え方は「Art of Medicine」をテーマに掲げていて、サイエンス(エビデンスや生理学)だけではなくアート(医療倫理や空間デザインの最適化etc)もまた患者さんのケアと極めて密接に関わっているものと捉えています。
川口 EMCの考えを推し進めると、患者さんだけじゃなく、患者さんの家族や医療スタッフの不安やストレス軽減につながり、ひいてはコミュニケーションの改善などによる医療安全や質の向上にもつながっていくんですよ。
河本 患者さんだけじゃなく医療スタッフもというのがユニークなところですね。
武澤 EMCは人間対人間としてハートが通じ合った関係でいられることからすべてを考えます。患者さんは病気がどんどん日ごとに良くなっていく中で、看護師さんやお医者さんも毎日明るい気持ちで診察・治療に取り組めたら、不安も取り除かれこれほどハッピーなことはないと思いますよね。
川口 人間って、病院に入院するというだけで、活動量が低くなったりストレスや不安を抱えたりして、本来持っている免疫機能や認知機能が落ちてしまいます。その結果、早期の回復が望めなかったり、退院後の生活機能が落ちたりします。だから、入院中でも普段の生活とさほど変わらずに自分らしく過ごせる環境をつくることで、少しでも早く良好に回復できればと思います。なので、僕はその考え方を基にした「病院快適環境プロジェクト」を院内で展開してきました。
講演の雑談がきっかけで生まれた出会い
河本 武澤先生と川口先生が出会ったのはいつ頃なのでしょうか。武澤先生はデザイナーで、川口先生は麻酔科の先生なので、何だか接点が想像できないんですが…。
川口 あれは2014年だったかな。急に現れたんですよ。当時ネバダ大学の集中治療医学の最高責任者だった重光秀信先生が、奈良医大でICUにおける終末期医療をテーマにした講演会を実施した時に、その横に国際医療コーディネーターであり快適空間デザイナーの武澤先生がおられたのが始まりです。
武澤 重光先生はアメリカで私と一緒にEMCを立ち上げた方なのです。その先生が奈良医大で講演された“終末期医療の現状”というテーマとは別に「実はEMCという新しいアプローチがあって…」とEMCのお話をしましたら、川口先生が興味を示されたのがきっかけですね。そこから話がどんどん進んで、日本でEMCを検証し確立させていこうということになったのです。
川口 重光先生が話されたICUの終末期医療の考え方にとても共感したんですよ。日本だと一度人工呼吸器をつけてしまうと、延命することを第一とし、患者さんの満足度や快適性などは考えにくい状況です。ところが欧米では、患者さんの最後の時間のクオリティを考えて、早期に「死」というものを受け入れる環境も整えておられました。そんな重光先生の考えに感銘を受けて、じゃあ当院のICUでも何かしていこうという話になりました。
武澤 川口先生は、そういう新しい風を取り入れてくださる、とても素晴らしい日本の医師の一人だと尊敬しています。
EMCが挑む、医療現場に根づく「常識」との戦い
河本 EMCは米国で武澤先生が重光先生と共に確立したものだったのですね。日本に合わせてEMCを解釈しローカライズしていくうえで、難しいことはありましたか?
武澤 私の場合、空間デザイナーの視点でEMCを日本に浸透させるには【見せる美学】 【見せない美学】【見えない美学】や【色彩学】を病院の環境と結びつける理論を構築しました。その理論とは、視覚・嗅覚・味覚・触覚・聴覚の【五感】に加えて、皆が持っている知恵や経験、思いやりを駆使し医療現場の【気づき】を見つけ実践するというものです。ちなみに、この知恵や経験、思いやりを、私は造語で【想感】と言っています。このEMCの理論を当時、日本の医療現場において構築し実践するには、受け入れ方の理解力の温度差もあり難しかったですね。実践する川口先生はどこが難しいと思っていらっしゃいますか?
川口 やっぱり人が持つ常識ですね。病院はこうあるべきという凝り固まった常識が障壁として存在しています。例えば、病院の壁は白くないとダメとか、病院はお洒落をする場所ではないとか、患者は病気の回復に専念しなさいとか。病院に入院することになったらとにかく自由と選ぶ権利がない。
河本 入院したら、朝は6時に起床して、8時に朝食で、夜は10時になったら消灯などと決まっていますね。
川口 何だか監獄に入れられたようで、それに従うしかない感じでしょ。そうなってくると、生きるエネルギーが下がってどんどん悪化していくものです。たとえ病院の中でも社会の一部なんだから、人間としての営みや喜びなど、そういう力をいかにつけるかが回復に向かう上で大事だと思うのです。
河本 確かに。私も先入観を持っていました。
川口 社会にはいろんな喜びや楽しみがあるのに、病院の中にはそれがない。だから、そこにいかに新しい感覚を持ち込んでくるかが病院改革のひとつであって、どのように「生」というものを楽しむかというのも病院環境の重要なゴールかなと考えています。
河本 川口先生は麻酔科医として勤務されていますが、どうしてそこまで「病院快適環境プロジェクト」に深く取り組まれているのでしょうか?
川口 私は神経麻酔が専門なのですが、そのゴールが麻痺などの神経機能を守るということから、患者さんの認知機能、幸福度や満足度を改善するという方向に変わりつつあります。どんな人でも、入院するだけで筋力が低下してしまい、精神的にも落ち込むとさらに活動度が低下し回復が遅れる結果になります。早く回復に向かうという理想の病院像を目指すなら、その延長線上に病院を快適な環境に変えていくことも重要な課題と考えるようになりました。
河本 神経麻酔って実はアートと親和性が高かったんですね。
川口 神経そのものが、アートを感じたり喜びを感じたりする機能を持っています。また現代の神経麻酔学では、幸福度や満足度も重要な研究の対象になっています。脳や神経を刺激することで生きる力が活性化されて早期の回復が期待できるという点で、アートと親和性が高いと言ってもいいと思います。
“見せる美学” パジャマから擬似窓まで、EMCが彩る日常の変化
河本 そんなEMCの考えを、具体的に実践してみた事例があれば教えていただきたいです。
川口 まず、病院の施設を変えないまま気軽に実践できた例にパジャマが挙げられます。パジャマも病院の「環境」のひとつです。病院のパジャマは、基本的に地味やでシンプルなものでないといけないという固定概念がありませんか?
河本 確かに病院のパジャマ地味じゃないといけないと思い込んでいますね。
川口 それを打ち破るために、患者さんが自分でお洒落なパジャマを買ったり家族が贈ったりして楽しむ企画を立てたんです。「パジャマdeおめかし」プロジェクトと名打って、写真展も開きました。患者さんにメイクをして、それぞれ好きなパジャマを着てもらって写真を撮ったんです。すると、患者さんはもちろんですが、ご家族も医療スタッフたちもエネルギーが満ちあふれてきて…。
武澤 デザインや色の魔法にかかり、参加された皆さんは表情が全然違いましたね。
川口 病院という環境の中で、どんどんお洒落に目覚めていったのがよかったです。最近では、武澤先生との研究で、お洒落なパジャマに加えて頭にビビットカラーのターバンやドレーンカバーなども着けてみたんです。活動度や睡眠にいい影響が出るんじゃないかと思ってね。まだ詳細なデータは収集できていませんけれど、実践可能な病院の快適環境のひとつかなというふうに捉えています。
河本 そうだったんですね。パジャマも病院の「環境」のひとつというのは、言われてみれば確かにそうだなと思いました。パジャマは病院の施設を変えなかった事例ということでしたが、変えた事例もあるんでしょうか。
川口 ありますよ。病院の外にカメラを置いて配線を通して、ICUと一般病棟でその景色がオンラインのデジタル映像で見られる疑似窓(デジタルウインドウ)を設置しました。外の景色が時間と共に変わります。天気がよかったり、雨が降ったり、窓に水滴がついたり、また季節が変わったらその変化の様子を楽しめたりします。
武澤 あと、ICUをつくるにあたって、不安や恐怖を取り除くために シリンジポンプを【見せない美学】【見えない美学】の基に癒しのデザインを加え、スクリーンで覆うことにより 家庭的な優しい空間を演出しました。そして 壁に貼って剥がせるさまざまな変幻自在の装飾を施しました。それはデザイナーである私の好みとか先生の好みではなく、そこで働く医療スタッフや入院される患者さんを第一に考えました。話を聞いて、その内容を色彩分析し、十分に検討を重ねたものを選んでいます。また、デザインが好みでないと言われたときには、他の装飾シールに交換も可能なのです。
川口 快適さとは人によって違うから、なかなか難しいところもあります。
河本 環境だけじゃなく、ちゃんと人の心を考えて変えていくことがゴールになっていて、すごく素晴らしいと思います。
アートの気づきを、サイエンスへ昇華させる
河本 本来、お化粧したり着飾ったりして自分らしく生きるということや、恐怖や不安が取り除かれた日常的快適空間が推奨されるべきなのに、病院じゃそれが当たり前じゃなくなっていますもんね。
川口 そうなんですよ。
河本 【五感】を駆使し、その違和感への【気づき】のクリエイティブ・シンキングを、脳神経などの観点から仮説を立てて実験と実証を重ねていくクリティカル・シンキングに昇華させることがEMCの本質かなと思いました。そのような前例のないことを実践されていて、明らかな優位差を出していくことは、結構難しいんじゃないでしょうか?
川口 そうですね、パジャマなどの検証項目によってはデータにバラつきが多いですからね。そういう傾向があってもはっきり優位差を示して、こういう環境にしたらいいとか、こういうパジャマを着るといいとか、なかなかそこまでエビデンスを出せていないのが実情です。
河本 人によって感性も様々ですもんね。
川口 そう。社会にはいろいろな人がいるので、一律にできないところが難しいです。だから現時点では、いかに凝り固まった病院の常識を変えていくかが最優先の課題ですね。
医療環境を造り変えるムーブメントを呼び起こす
河本 これからのEMCの活動の中で、最も力を入れていきたいテーマや興味を持っているテーマはありますか?
川口 今の日本の病院は診療報酬ばかり気にしていて、快適な環境に造り変えることは無駄な支出だと思っているところがあります。もちろん治療は大事だけど、患者さんが回復していくプロセスの幸福度にも注目する必要があります。生きている間の幸福度と満足度を上げていく環境をどのように整えていくかが重要で、それが達成できるような何かを考えていかなくちゃいけないですね。そのためには、そういうムーブメントを個々が世界的規模で起こしていくしかないと私は思っています。
武澤 EMC理論の基、ひとつ服だけ変えるとか、ひとつ部屋だけ変えてみる、そして かかわる人々の人間力を向上させ、快適空間を創り出すだけでも、それが世界同時多発的に起これば、すごいムーブメントになりますよね。
川口 そう、同時多発的にEMCプロジェクトが生まれて概念が全体的に広がれば、自然とより快適な医療環境へと変わっていきます。なので、そこに注力していこうと思っています。
次世代の医療者につなげたいEMCのビジョン
河本 最後になりますが、今お二人が私のような未来を担う人材に対して期待されていることがあれば教えてください。
川口 常識にとらわれず、患者さんの立場に立った医療ができるようになってほしい。社会の進歩によってどんどん環境が変わっていくと思うので、その時代のニーズに合わせて変化できるよう、頭の中でビジョンをしっかり持っていることが重要になってくると思います。ぜひ頑張ってください。
武澤 私は人とのコミュニケーションから何事もスタートしていくと思うので、近道をするというラクなことはせず、何事も丁寧に取り組んでほしいですね。現代人は時間とか効率とかを考えて消去法でパッパッと行動しがちですけど【丁寧が勝つ】というときもあります。そして、いっぱい【気づき】を見つけ、実践していってくださいね。
河本 はい、がんばります!本日はどうもありがとうございました。